Psersonal record of experiences

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2019.8.5

浮遊する、夏。

ある、光。

今日も暑い。
信号を待つ交差点では、陽炎が揺れている。空は高く、遠い。
絵の具の見本のような水色に、白い雲がCGみたいに浮かんで 濃い緑が風に揺れている。
目の前を横切る車や人並みが、ふと盆踊りを踊る人のように見えた。
そして、向こう側にいる信号を待つ人たちの中に昨年亡くなった祖父や、数年前にこの世を去った友人、かつて一緒に暮らしていた愛犬たちがいたような気がした。

「そっか、お盆か。」
自分の口から形となってそんな言葉が出てきた。
「南無阿弥陀仏」が小さな仏像となって口から出ている空也上人像が頭の中に浮かぶ。
もちろん、祖父や友人が本当に見えたわけではない。
盆踊りのように横切る景色。その隙間から揺れる陽炎。その先に、いたような気がしただけだ。

肉体はあるけど、もうきっと二度と会えないだろう人。
肉体はもうないけど、いつでも思い出せる人。
どちらが「もう会えない人」になるのだろう。
そんなことをふと思う。
なんにせよ。顔を合わせることや、声を直接聞くことができなくなっても。思い出はずっと私の中に生きている。

「果たして、あの世からはいつだってこの世が見えているのだろうか。」
信号が赤から青に変わって、横断歩道を渡りながらそんなことを考える。
あの世からテレビが流れるようにいつだってこの世が見えていたら。
かつて自分が存在した もう触れることのできない世界が目に映るということは、それはとても残酷なことなのではないだろうか。
天界から下界に降りてこれる期間があれば、そんな節目があれば。普段の様子が見えなくても寂しくなることはないかもしれない。
「〝お盆〟というものが誕生したのはそんな経緯もあるのかもしれない。」
そんなことに思いを巡らせながら電車に乗って、当たり前のようにスマホを取り出した。
「あれ、SNSってなんだか同じような気がする。」ロック画面を解除する指が止まる。
会うことがない人の日常も垣間見えてしまうSNS。
つい眺めてしまうこの中毒性を身を以て体感しているから、あの世からこの世が見えたら残酷だと思ったのだろうか。

充実した人の投稿を見ては羨んでしまったり、基準は「自分」にあるべきことがブレてしまったり。
有益なことはもちろん多いけど、知ることによって振り回されてしまう自分がいることも事実だ。
距離も、速度も、重力も飛び越えて手のひらに表示される情報に、きっとわたしの身体は追いついていない。
まるで自分が幽霊にでもなったような気持ちになるのだ。
SNSに対する違和感が〝お盆〟という言葉から導き出されるとは、暮らしとはなんとも不思議なものだ。

ロックは解除しなかった。
顔を上げて車内を見たら、帰路につく人の横顔が金色に照らされていてとてもきれいだった。

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