Psersonal record of experiences
人参を細長く切って、角をまあるく面取りして。
バターと同量の砂糖、それから人参がひたるくらいの水をお鍋に入れる。
火をつけて、沸騰したら弱火でコトコト煮込む。
久しぶりに人参のグラッセを作った。
今日は息子からハンバーグのリクエストがあった。
付け合わせにちょうどいいな、と思い立って人参を買って帰った。
銀のお鍋の中で揺れる、オレンジ色のそれは。
角が取れた古材が鮮やかにお鍋の中で踊っているようでなんだか不思議な景色だった。
「あれ、そういえば昔もこんなことあったな…。」
鍋の中で揺れる人参を見つめながら、この既視感の糸をたどる。
たしか、小学生のときの調理実習で人参のグラッセを作ったんじゃないかな…
そう、わたしはその時の記憶に辿りついた。
小学校高学年のときに、調理実習で人参のグラッセを作った。
つやつやして、かじるとホクホクして。あまい、あまい人参のグラッセ。
忘れないうちにもう一度作ろうと、家に帰ってからまた作ったのだ。
わたしが食べたかったから。
それは、本当。
でも、あのとき言えなかったけど。美味しかったから家族に食べて欲しかった。
帰ってきてすぐ作った人参のグラッセは、結局自分で味見しているうちになくなってしまった。
「おかあさん、あのね。おとうさん、あのね。おにいちゃん、あのね。」
という一言を発することもなく、みんなが仕事や学校から帰ってくる前に食べてしまった。
反抗期が始まって、どんな顔して声をかけたらいいのかわからなくなって。そのまま自分で食べてしまったんじゃなかったかな。
そうそう。ぐらぐらと揺れる人参を眺めながら「エンタシスみたい。」と、パルテノン神殿のことを思い出したんだった。
このグラッセ全部食べて。わたしのお腹に神殿が建てばいい。そこを自分の部屋にしたらいい。
そんなことも考えていた気がするな。
懐かしいような、いじらしいような。そしてなんだかこそばゆいような。
甘い匂いがする台所で、あの日のわたしと一緒に料理している気分になった。
今日作った人参のグラッセは家族3人でハンバーグと一緒に美味しく食べた。
最近思うことは、今日のグラッセのようにふとした瞬間に幼い時の自分のことを鮮明に思い出すようになったということ。
たとえば。
編み物を編んでいて、自分の編んできた編み目を振り返る。
ねじれてしまったり、飛ばして編んでしまったりしていないかを確認する。
一目・一目、確認しながら編んできたはずなのに。
どうしても ねじれてしまったり、飛ばして編んでしまったりする箇所はあるのだ。
そこを見つけた時に、それまで編み進めてきた糸を全部ほどいて。もう一度編み直す。
そんな作業を今日、台所でグラッセを作りながらした気がする。
いままでは編み進めてしまっていたが為にほどけなかった糸を。直さなかった編み目を。
いまは、躊躇なくほどいて編み直せる。
今日は息子の誕生日だった。
3年前の今日。わたしは母になり、夫は父になった。
少し固い言い方かもしれないけど、社会的役割が増えてよかったと思うことがここ最近増えてきた。
もちろん、それが苦しいことだってある。
「母」とは「妻」とは「女」とは「私」とは、、、見つからない答えを探して苦しいときもあった。
しかし。いままでほどけなかった糸を、躊躇なくほどけるようになったのは。
社会的役割が増えたことによって誕生した、自分の中の新しい〝眼〟ができたからなんじゃないかと思う。
〝眼〟だけじゃない、きっと〝手〟もふえている。
今までひとつだと思ってきた答えに、疑問を投げかけられるようになったのだ。
そして、その頃の自分とは違う役割を担った〝わたしたち〟が寄り添って、もう一度編み直す。
かつての「私」を、「母」と「妻」と「女」であるわたしたちが取り囲んで 優しくして、抱き合っていい思い出を作り直すような。そんなイメージが湧く。
だから、大丈夫。
編み間違えていても、大丈夫。
あの日、反抗期だったわたしは。
本当に一人でグラッセを食べたんだろうか。
もしかしたら、家族と食べていたのかもしれない。
冷蔵庫にこっそり残して、誰かがつまんでくれていたのかもしれない。
わたしが記憶しているよりも、うんと温かい思い出があったのかもしれない。
少なくとも今日、グラッセを食べて思わず顔がほころんでしまったわたしの隣で
嬉しそうに微笑む あの日のわたしがいたような気がする。
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