あいしている、と言えなくて。

  • 2016.7.27

先日、祖父に会ってきた。
年が明けたら90歳になる祖父は、わたしにカメラをくれた人だ。

カメラは自分の第三の眼だということ。
いい写真を撮るには愛される人でいなくてはダメだということ。
眼には見えないことが写真には写るということ。
祖父は口数が多い人ではなかったけど、わたしにいろんなことを話してくれた。

一緒に写真を撮りに行ってはお互いを撮りあった。

祖父は数年前からケガや病気を繰り返し、なんとなくカメラを向ける時間が少なくなっていった。

久しぶりにファインダー越しに祖父と向き合う。
わたしのこともわからなくなってしまった彼は、容れ物のようだ。
わたしは怖かった。
老いていく、変わっていく姿と向き合うのが。
うまくいえないけど、胸が苦しくて涙が出そうになる。
からっぽに近づいていく姿は、わたしの知っているおじいちゃんではなかった。
おじいちゃんの魂は、水が蒸発するように少しずつ・少しずつ大気に溶けているのかもしれない。
わたしは少しでもそれを身体の中に取り込みたくて、大きな深呼吸をして「またね。」とその場をあとにした。

実家でアルバムを見ていたら、わたしを写すおじいちゃんが写っていた。
おじいちゃんの手にあるカメラは、いまわたしの手の中にある。
もしかしたら、わたしもおじいちゃんの心を揺らしてきたのだろうか。これからはもっと写真を撮らせてもらおう。
おじいちゃんがわたしを撮ってくれた時間に追いつくくらいに。

どんなに胸が苦しくても、痛くても。
愛する人がくれるのなら、なんだって構わない。できるだけ深く、わたしのなかに残ればいい。愛する人に心を揺すってもらうことほど幸せなことはないはずだから。

昔撮ったおじいちゃんの写真を見て、鼻の奥がツンとした。優しく微笑むおじいちゃんから「あいしてる」って、聞こえた気がしたから。