わになる。
- 2018.12.31
「あ、これはいつか投げかけた問いの答えだ。」 そう思うことが多々あった。
12月。3歳の息子に初めてクリスマスプレゼントを渡した。
夫と話し合って、買ってきたプレゼントは明け方にラッピングして枕元に置くことにして3人で眠りについた。
朝。予定の時間に目覚ましが鳴って目を覚ますと既にラッピングされたプレゼントが枕元に置いてあった。
「サンタさんだ」と頭の中で呟いたら、涙が出てきた。
わたしにとって、サンタクロースの存在はなんだか複雑なものだった。
物心ついた時からクリスマスの日は母がある新聞の記事を読む時間があった。
ぼんやりと記憶しているその時間。
それは〝サンタクロースは本当にいるの?〟という質問を投げかけられた新聞記者が書いた記事だった。
サンタクロースは存在しない。でも、君が「いる」と信じれば。君の心の中にいるんだよ。
そんな話だったような気がする。
毎年、電気を消してろうそくの光の中で聞かされるその話が正直わたしは好きではなかった。
「結局、なにを言いたいんだろう?」「サンタさんは、いるの?いないの?」
幼かった私はその話をどう受け止めたらいいのかわからなかった。
クリスマスに本当に欲しいプレゼントは誰にも明かさず、当日のプレゼントを開けては願ったものと違う中身に
「やっぱりサンタさんはいないんだ。」と、ひっそりと肩を落とした。
それから時は流れて、わたしは母になった。
相棒である夫と共謀し、息子を喜ばせるべくプレゼントを置く日がきた。
その日、夫は予定していた時間よりも早く目が覚めたらしい。
わたしを起こすのもなんだから、、と一人でラッピングをしてくれたようだ。
枕元のプレゼントを見たときに、今まで思い出しもしなかったこどもの時のクリスマスの時間を思い出した。
「サンタさん、いたわ。わたしの中に。夫のなかに。」
幼かったわたしの問いに、20年以上の時を経て答えが現れた。
それは突然現れる。
こどもの頃に、至るところで探し・会いたいと願ったドラえもん。
仕事から帰ってきて、息子の寝顔を見にベッドを覗いたら。
ばあばに買ってもらったという、ドラえもんの着ぐるみパジャマを着て眠る息子がいた。
「やっぱり君は、未来からやってきたんだね。」と笑ったら、
遠い昔にドラえもんを探していた小さい私が目の前の眠るドラえもんと手を繋いだ気がした。
先日行った宇多田ヒカルのライブもそうだった。
彼女の歌声は降り注ぐような音だった。バックバンドが奏でる懐かしい曲は、放たれるような音だった。
暮らしの中での気付きと似ていると思った。
降り注ぐように、タイムラグがさほど起こることなく体感する事象。
放たれるように、長い時間を経て体感する事象。
かつてのどこかで放たれた矢がわたしの的に届いて、その瞬間に何かがぐるぐると回り始める。
今年は遠い遠い昔に放ったものが、わたしの心に届くことが多かったような気がする。
弧を描き、わたしの元に届いたそれは。美しい「輪」になっているんじゃないだろうか。
整っているとか、そういうものではなく。
味のある、きっと逞しくて美しい輪。
今年は出産に立ち会う機会があったり、祖父と祖母を亡くしたりもした。
生まれる命、見送る命。
こうして人は巡る命を繋いで生きてきたのだと痛感する一年だった。
螺旋を描くように続いていく暮らしのなかで、きっと今年のわたしもいつかのわたしに様々なことを放っているのだろう。
いまはまだ気がつかないけど、きっと長い時を経て忘れたころに答えが現れると確信を持っている。
そう、それはきっとクリスマスの朝に見つけた枕元に置かれたプレゼントのように。