愛が、なんだ。

  • 2020.04.16

家族が寝静まった夜、大体23:30くらい。
自宅のBSチャンネルで映画を観るようになった。
今月観たのは邦画を2本。
「愛がなんだ」「彼女がその名を知らない鳥たち」。
2本とも〝愛すること〟をテーマにした作品で、鑑賞後の感想はどちらも同じだった。
それは『自分が誰かを想う同じ強さで、自分も誰かに想われている。』というものだ。
自分を慰めるために思いついたのか、誰かの受け売りか、何かの作品の言葉だったのか。
どこからやって来た言葉か忘れてしまったけど、わたしは10代の終わり頃からずっとこの言葉をお守りのように胸にしまっている。
この言葉を思い浮かべると、脳内のスクリーンに円が浮かび上がってくる。
円になった向かい合うことのない矢印は、お互いの尻尾を追いかけながらグルグル回り出す。

「愛がなんだ」は、テルちゃんがマモちゃんに恋い焦がれる作品だった。
それは、承認欲求なのか。依存なのか。はたまた愛なのか。
マモちゃんが「そういうの嫌なんだよね」と、うんざりしながらも、すみれさんに恋をする姿はテルちゃんのようだった。
ぐちゃぐちゃになりながら「そんなのどうでもいい。わたしにはマモちゃんが全て。」と、一生懸命になるテルちゃんの姿は火がついたネズミ花火のようだった。
〝愛がなんだ〟と言いつつ、マモちゃんのことをとっくに好きではないと嘘をつくラストは紛れもなく愛なんじゃないかと思う。
恋人になるチャンスを虎視眈々と狙っているだけかもしれない。
恋人になれなくても、友達としてそばに置いていてほしいという願いかもしれない。
日常の些細な出来事に心を揺らし、人と衝突しながら自分と向き合い、気持ちを因数分解した結果辿り着いた答えが〝そばにいたい〟だったのであれば。
それは、その過程も含めて愛と呼んでいいような気がする。

「彼女がその名を知らない鳥たち」も、狂ったように人を愛する作品だった。
陣治の注ぐものは、親が子を慈しむような愛に似ているような気がする。
たびたび繰り返される〝種ナシ〟という台詞から、陣治は親になりたかったのだろう。そして、それが叶わない自分に強いコンプレックスを抱いて生きていたのではないだろうか。
十和子に出会い、十和子を養い・保護をすることで陣治は世界に自分の存在意義を見出していたように思う。
「俺が全部持っていくから」「十和子はこどもを産んでくれ。その子は俺だから。」「俺を可愛がって育ててくれ」そう言って十和子を抱きしめるように、十字架のような姿で飛び立つ陣治。
このシーンを見た時にも、脳内のスクリーンに大きな矢印が互いの尻尾を追いかけながらグルグル回っていた。
陣治が空に沈んだあと、飛び立つ鳥たちを眺める十和子の顔が空に浮かぶ月のように重なる。
タイトルの〝飛び立つ鳥たち〟はこういうことか。と、よぎったけれど。
この〝彼女がその名を知らない鳥〟は陣治のことではないだろうか。

わたしたちは、想いを注いでいると同時に、同じ(もしくはそれ以上の)想いを注がれて生きている。
そして、誰しも皆。自分が注ぐ愛情にはすごく繊細なのに、注がれている愛情にはとても鈍く、自分を保護してくれている〝鳥〟たちの名をきっと知らない。知ろうともしていない。そして誰もがまた、名を知られることがない鳥なのだ。
承認欲求だろうが、依存だろうが、愛だろうが。
塩を作るように煮詰めた結果、残った結晶が相手の幸せならば。結晶化できるほど思いを突き詰められたのなら。
それは紛れもなく、愛と呼んでいいのだと思う。いや、きっと呼び名なんてつけなくていい。

愛が。なんだってんだよ、な。