掴もうとして

  • 2020.05.24

息子が初めて一人でシャワーを浴びた。
光が差すガラス張りのシャワールームで、水を浴びながら体を洗っている。
息子の肌を滴り落ちる水の粒を眺めて、息子は感嘆の声を上げながら「かかー!」と、わたしを呼んだ。
「ねえ!見てみて!!虹!」
窓から差す光に照らされて、手元に虹が見えたのだろう。反射の加減のせいか、わたしの目には虹は見えなかった。
「ねえ!見える?お写真、お写真はやくカシャして!」
急かされながらシャッターを切る。
虹が写っても、写らなくてどうでもいい。いまのこの時間を思い出すための記録になればいい。

「水の原料は虹なんだ!だから粒になると虹が見えるんだ!」
息子はシャワーから注がれる水の粒を見上げながら、新しい発見に興奮していた。
夫と二人、少し離れたところでその姿を見つめて「大きくなったね。」と、声をかけあった。

息子がまだ赤ちゃんだったとき、お風呂に入るといつも水を掴もうとして掴めないことを不思議そうにしていた。
もう少し大きくなると、水の粒を集めてお寿司やおにぎりを握ってくれた。
「どーじょ(どうぞ)!」と、わたしに手渡してくれて、わたしはお風呂に入りながら小さい大将が握るごはんを頬張っていた。

髪を洗う。顔を洗う。身体を洗う。この3つをいかに素早く、機嫌よく済ますか。
いつしかそのことが最重要事項になって、息子の水の捉え方なんて気にしなくなっていた。

「ねえ!!虹なんだ!ぼくは虹を浴びているんだよ!」
弾けんばかりの笑顔で叫ぶ息子を眺めながら、わたしはヘレンケラーのことを思い出していた。
「water!」と叫んだ彼女も、こんな風だったのかもしれないな。
わたしは気づかぬうちに息子の豊かな感性と、そこから誕生する発見を奪っていたのかもしれない。
手を貸すことと、見守ることは違う。わかっていたようで、てんでわかっていなかった。
「ごめんね。」と、心の中で小さく呟く。

「かかー!みて!これみて!おみず!」

そう言って服を着るより前に濡れたままで書いてくれた水は、美しい虹色をしていた。