永遠に、ご無事で。

  • 2021.6.18

実家で飼っていた犬が息を引き取った。
彼女は〝ゆず〟という名前のチョコレート色のラブラドールで、おっとりした性格の穏やかな子だった。
「もう飼いきれなくなって。」と相談を受けた父が、我が家に引き取ってきたのは彼女が3歳くらいの頃。
車に乗るのが大好きで、よくドライブに行った。
祖父のことが大好きで、一緒に車に乗っては祖父の膝にちょこんと顔を乗せていた。

わたしが20代半ばの時に我が家にやってきた彼女と、一緒に暮らした時間は短かった。
結婚して、出産して、育児が始まって。
気がつけば会わない時間が長くなり、結局会えないままわたしはハノイに引っ越してきてしまった。
〝いままでと変わらず会えない日が続くだけ〟そう思うと、それはずっとそばに居るのと同じような気がした。
消えたんじゃない。不在が続くだけ。
「不在って、ずっと存在してるってこと?居るから、居ないって言うんでしょ?」
名探偵コナンの映画主題歌である東京事変の歌を聴きながら、息子がそんなことを言う。
「ほんとだね。ちょうど同じようなことを思ってたよ。」そう言って息子の柔らかい髪の毛を撫でる。

ゆずと初めて出会った日に心の中に植わった種が、死の知らせを聞いた瞬間に発芽したような気がした。
これからどんどん成長して、これからもずっとわたしの中にそれは在る。
「ゆずが死んじゃったって。」そう息子に告げると、彼は「もう会えないの?」と、目を潤ませた。
そしてわたしに「泣かないの?」と、聞いた。
涙を流すことだけが悲しみの表現ではないこと、
全ての死が悲しいわけではないこと、
全うした人生は祝福に値すること、そんなことを伝えた。
そしてふと、〝愛しい〟を「かなしい」と読む日本語は美しいなと思った。

“もし、これが永遠の別れなら。永遠に、ご無事で。”
かつて太宰治の小説で読んだこの一節にいつも救われる。文学は偉大だ。

生まれてからずっと外で飼われていた彼女は、初めて家に来た時にフローリングの上を歩けなかった。
初めてスケートリンクに降り立った人みたいに、その感触に戸惑ってツルツル滑って転ぶ彼女の姿を見た時、わたしはなんだかすごく切なくなって、思わず泣いてしまったんだった。
訃報を受けた日の夜は、その日のことを夢に見た。
目が覚めて、美しい朝日を眺めながら〝ゆずは雲の上を上手に歩けたかな〟と思ったら涙がボロボロとこぼれてきた。
「どうか。永遠に、ご無事で。」心の中でそう唱えながら
いまなら何かに・どこかに届きそうな気がして、部屋に差し込む光をたくさん写真に残した。