茜色の夕日。

  • 2020.7.15

「ねえ、かかー。パンツどこにある?」
いつもよりも一時間ほど早く起きた息子から声をかけられた。
昨晩深夜までベトナム語の宿題をしていたわたしは、布団の中で「あと30分は寝れる…」と思いながら息子にパンツの場所を伝えてうつら うつらする。
「…パンツ。パンツ……パンツ!?」
「ねえ、どうしてパンツなの?濡れちゃった?」と、息子に事情を聞く。
5歳になる息子は今までおねしょをしたことがない。
オムツが外れるのが遅かったのもあるが、パンツデビューをしてから今日に至るまで布団に地図を描いたことがないのだ。
「なんか、ちんちんがいっぱい汗かいちゃったみたいなんだよね〜。」と、息子は言う。
「汗?おしっこではないの?」の問いに「おしっこじゃないよ〜!」とケラケラ笑う。
(昨日は暑かったし、汗なのかもな。)そう思って寝返りを打ったら、足元にひやりとする感触があった。布団カバーが少し湿っている。ガバッと起きあがって、布団カバーをはがす。リビングにいる息子が脱いだパジャマを確認する。
「…おしっこだねぇ!」思わず笑ってしまった。
すごい、人生で初めて息子のおねしょを体験してる!ないと思っていた体験を、いましている!そう思うと楽しくなってしまった。
息子も「え〜これがおねしょー?」と、なんだか楽しそうだ。
二人で「おねしょだ〜!おねしょだよ〜〜!」と、抱き合ってキャッキャしながら朝ごはんを食べた。
〝意識がないのに用を足す〟ということがなかなか理解できない息子は、何度も「だってボク寝てたよ?」と、私に聞いてきた。
寝ているときにも人の身体は排泄することがあるということを伝えると「えー!知らなかった!」と、新しい発見に目を輝かせていた。
「だから、これからは寝る前にトイレに行こうね。あと、寝てる間も身体はずっと動いてるんだよ。身体はえらいねぇ。」
そう伝えると大きく頷いて「えらいねえー」と、自分の股間を撫でていた。

午前中はベトナム語の授業がある。50番バスに乗って車窓から見える景色を眺める。
バス停までは行くけど、どうお金を払ったらいいのか・降りる時はどうすればいいのか、など。よくわからないことへの不安からか怯んでしまって、到着したバスを見送って目的地まで別の手段で行くということがこれまで多々あった。
バスに初めて乗った日のことはいまも覚えている。
あの日は夫の誕生日だった。
彼の誕生日、その日に。わたしも何か新しい姿を見せたかった。
「あなたの誕生日が、わたしがバスに乗った記念日になったよ!」そう報告したかった。
あの日、到着したバスに乗るわたしの背中を押してくれたのは間違いなく夫の存在だった。
以来、バスはわたしの愛用する交通手段となる。車窓の景色を見てなんとなく「いまこの辺りを走っているな」と、わかるようになってきた。
きっとこれからの授業で新しい言葉を覚えて、看板を見てなんとなくでもなんのお店かわかるようになってくるんだろう。文字も、言葉も、知らない景色も、なにもかも知らなかった頃のわたしが今日もまたひとつ減っていくんだな。そう思うと、新しいことを知る喜びと一緒に、なんとも言えない淋しさがこみ上げてくる。
『あぁ、今日を知らないわたしがいますごく愛しい。』そんなことを思って、じわっと目尻が熱くなる。

学校に到着して授業を受けて。お昼ごはんは学校近くの食堂に行った。
この街に住み始めて、地元の人が気軽に入る食堂に入るのには5ヶ月の時間を要した。
〝海外に住んで、いち早く地元の人と同じ暮らしをする〟そんな「かっこいい人」の定義が自分の中に存在していたことを知ったのは最近だ。
バスになかなか乗れないこと、地元の食堂になかなか入れないこと。これらのことをどこか後ろめたく思っていたのは、自分の中にこんな定義を持っていたからだろう。そのことに気がついたとき、顔から火が出そうなくらい恥ずかしくなった。
この基準を持っているということは、無意識のうちにそうやって人をジャッジしていたということだ。
わたしはなんて恥ずかしいことをしていたんだろう。「恥を知れ」と、もう一人のわたしが真顔で呟くような瞬間だった。
気がつけてよかったなと心底感謝した。
この街に住みはじめてから、どんどん〝いい〟〝悪い〟の輪郭が曖昧になっている。
いい写真、いい文章、いい人、いい暮らし。
〝いい〟とは、一体どういうことなんだろう?
なにと比べていいのだろう?いいも悪いも、なんにもわからないなぁとつくづく思う。
ただそこに在って、ただそこに居る。
それだけのことなのに、なぜそこに意味や理由、ドラマを持ちたがるのだろう。
いままでの私はそのことを生きていく面白味として愉しんでいたはずなのに、こんなことを思うなんて不思議だなと驚いた。数日経てば忘れてしまうことかもしれないし、やっぱり違ったなと思うかもしれない。だけど、いまのこの足元からぐるりとひっくり返されて内臓と皮膚が裏返しになるような気持ちは決して忘れてはいけないような気がして、目があった景色を写真に収めた。

夜は友人と電話をした。「今日1日を思い浮かべた時に浮かぶ景色は?」と質問されて、すぐに浮かんだのは今日の夕飯の景色だった。
冷凍の餃子、サラダ、もやしを玉子で包んだもの、玉子焼き、昨日の残りのバインセオ。
簡単に済ませたつもりだったけど、テーブルに並んだごはんは華やかだった。
その光景を見て「今日はとても良い1日だったんだな」単純にそう思った。
食卓は無意識の中の意識が具現化しているのかもしれない。
夫も息子もわたしも〝本日の萌子〟を食べているのかもしれない。そう思うと、できるだけいろんな味の日々を過ごしたいなと思う。
今日は、友人に聴かせたい歌があって、始めたばかりのギターを帰宅してから一生懸命練習した。拙いながら、PC越しに聴いてもらった。
こうして弾き語りを人前でするのは初めてだ。

自分の為と思うとしんどくなることも「あの人の為」と、誰かの顔を思い浮かべると途端に楽しくて嬉しくなるのは人間の素敵な性能の一つだ。わたしは毎日、誰かに背中を押してもらっている。
明日はどんな1日だろう。
新しいことを安心して覚えられるように、今日のことを安心して忘れられるように。
わたしは今日も日記を書いて眠りに就く。
〝無責任でいいな、ラララ〜。そんなことを思っていたんだ。〟
今日歌った歌が頭の中でいまも鳴り響いている。