2021.04.02

しばらく風邪で臥せっていたが、薬が効きはじめて少し動けるようになった。
寝ている間に息子の机はすっかり散らかってしまい、片付けを手伝うついでに引き出しの整理をしようと開けた。
その中には、夫と私が日本で使っていた財布やわずかばかりの日本円、それから通帳など、いわゆる貴重品が入っている。
夫の革財布を見たらカビまみれになっていた。〝げげ、これは…〟夫のお財布を磨くかなと思って、なんとなくそれを手に取った。
中身は整理されていて、昔ホーチミン出張でもらったショップカードくらいしか入っていなかった。
「これだったら特に連絡しなくていいか。」そう思い私は革用クリームと乾いた布を手元に用意し、大量についたカビを払う。
外側、内側、と作業を進めていくと、小銭入れとお札入れの隙間になにか白い紙が入っていた。
〝あれ、これなんだろう〟取り出してみると、それは4つに折られたメモ帳とおみくじだった。

夫とは初めて二人で出かけた日から、何度もおみくじを引いた。
お互い静かで緑がある場所が好きなので、神社へ行くことが多かったのだ。
この小さく折られたメモ帳も知っている。
紗のような細かい目が入った少しつるりとしたメモ帳は、夫が一人暮らしをしていた時から使っていたものだ。
岡山〜東京間で遠距離恋愛をしていたわたしたち。岡山に住む彼の家を出る時、わたしを見送って帰ってきた彼が少しでも楽しい気持ちになってくれたらいいと思って、いつもこのメモ帳にこっそりメッセージを残して帰っていた。
「懐かしいな〜」久しぶりの手触りと、折れ目についた黒い線をなぞりながらメモを開く。
そこには日本で使っていたわたしの電話番号がメモされていた。
〝080-○○○○ー○○○○　もこちゃん〟
彼の字で書かれたわたしの当時の呼び名は、なんだか少しくすぐったい。

〝あんなにたくさん一緒におみくじを引いたのに、どうしてこれだけ持っているんだろう〟
中に何が書かれているのか気になったわたしは、短冊上に折りたたまれたおみくじを開いてみた。
大吉だったのかな？そう思って確認したら、おみくじは中吉。
一人で勝手に、夫のかつて引いたおみくじを覗いて当時の彼の状況を想像し、勝手に行先を案じてしまう。
ふと恋愛の項目に目をやると、この一言があった。

〝恋愛：愛しぬくこと〟

あ、この人がこのおみくじを取っておいたのはこの言葉があったからなんじゃないかな。
自惚れやすいわたしは瞬時にそう思ってしまった。
夫にLINEを送る。「財布を磨いてたんだけど。これ、いつのおみくじ？」そう尋ねると「初めて二人で出かけた浅草神社かな。」と返事が来た。
その瞬間、頭の中に突風が吹いた。開いた本に挟んだ栞ごと吹き飛ばすかのように、ものすごいスピードで記憶のページがめくられていく。
そして、当時の記憶に辿り着いて物語が再生される。

「彼女になってくれませんか」と言われた次の日が休日だったこと。
穏やかな春風がカーテンを揺らしていたこと。
ラジオからくるりが流れて、思わず泣いてしまったこと。
信じられないくらい優しい気持ちでホットケーキを焼いたこと。
それをいまでも昨日のことのように思い出せた自分に驚いてしまった。

好きな人に、好きだと言える。そのことを喜んでもらえる。それが嬉しくて、幸せな気持ちになる。
当たり前のようで決して当たり前ではないそのポジティブなループに戸惑ったりもして、地に足がつかないってこういうことなんだなと実感したことをいまも覚えている。
いつだって自分の方が彼を好きだと思っていたし、それでよかった。
でも、もしかしたら。
彼だって同じ気持ちだったのではないだろうか。
同じように惹かれ、同じような不安を抱えていたのではないだろうか。
そして、実はわたしと同じように浮かれていたのではないだろうか。

あの日、あの浅草神社で「愛しぬくこと」と書かれたおみくじを引いた夫は、もしかしたらその言葉をお守りのようにずっと大切にしていたのかもしれない。
夫とわたしが、現在もお互い大切に思い合っていることはちゃんとわかっている。
わたしが夫を大好きなように、夫がわたしのことを大好きでいてくれることもちゃんとわかっているけど。
だけど、わたしは夫の愛を全然わかってなかったのかもしれない。
わたしは、自分が思っている二重も三重も広くて深い愛に包まれていたのかもしれない。

このおみくじを引いたのは2012年の4月の終わりの頃だった。
葉桜を眺めながら新緑の下を散歩して、他愛のない会話を交わしてお蕎麦を食べて解散した。
あの日、彼はどんな気持ちでこのおみくじをお財布にしまったのだろうか。
9年の時を経て、浅草から遠く離れたハノイの地で、あの日夫が引いたおみくじを撫でながらあの日の春を想う。
横から様子を見に来た息子が「それ、なに？」と尋ねてきた。

「とっておきのラブレター！」わたしはそう答えて、磨き終わってピカピカになった革財布におみくじと4つに畳んだメモをそっとしまった。

愛しぬくこと。