déjà vu

  • 2023.02.03

「一体、この年になにがあったの?」
写真をめくりながらその人はわたしに訊く。
「もっと重くて、太くて、硬いもので世界と繋がっていると思ってたんです。これまでは。だけど3年前の今日、この街に暮らし始めてから。わたしと世界を繋ぐものは、か細くて、軽くて、簡単にちぎれたり、飛んでいってしまうような頼りないものだったんだと気付いたんです。」
わたしはそこにある写真を眺めながらそう答える。
「うん。じゃあいまは?そこから何か変わった?」
「はい。そこから3年をかけて、もう一度繋ぎ直してきたような気がしています。世界と、自分を。」

そう答えたところでハッと目を覚ました。
〝久しぶりに夢を見たな…〟そう思いながら、今見た光景はきっと自分の未来に起こるような、デジャヴになるような、妙な自信に満ちていた。
今日はハノイに引っ越してきた日。ここでの生活も丸3年経った。
〝そっか、わたしはこの3年で世界と自分を繋ぎ直してきたのか〟
そんなことを思いながら布団にくるまってまどろむ。

引っ越してきた2020年。コロナウィルスが猛威を奮い、ネットには訃報を知らせるニュースが増え、慣れない生活の中で息子とは四六時中一緒。気を紛らわせる場所も、方法も、この気持ちを共有する友人も見つからない中、わたしはどうにかなってしまいそうな気持ちだけがどんどんと膨らんでいた。
14階の自宅窓は、落下防止のため隙間程度しか開かず、ぼんやりした頭で毎日「あれが大きく開いたら助走をつけて飛び降りるのに」なんて考えて、直後に隣で甘えてくる息子や帰ってくる夫のことを思い出して「わたしはなんてことを思ってしまったんだろう。」と自己嫌悪に苛まれ落ち込んで。そうやってまた、どうしようもない気持ちが雪だるまみたいに膨らんでいく。
環境の変化に気持ちも身体もついていけず、やるべきこともできなければ、やりたいことも思いつかない。
そんな状況に向き合おうとすると、とにかく勝手にいろんなことを思い出してしまう自分の記憶たちに驚きながら〝人間の脳みそって自分が思っている何万倍もいろんなことを保存しているんだろうな〟と感心をして、その思い出ひとつひとつを許してあげたり、一緒に怒ってみたりと、心の中でゆっくりとお焚き上げをしていった。
誰かと話したい。誰かに話したい。でも、できない。
そんな堂々巡りを何度も繰り返して、沈黙に勝るものはないのだということを学んだ。
誰にも言えないことに自分が在る。
そして、そういう自分のことは自分が知ってあげていればいい。
いつしかそんな風に思えるようになり、気がついたら気持ちが凪ぐ日が増えていった。

この3年でなにがあった?
もし、そう訊かれても何も答えられない。
よく「名もなき家事」なんて言葉を耳にするけど、暮らしと括られるものは名もなきことがほとんどなのだと思う。
しんどい時は眠り、気が向いたら編み物をして、家族の時間に合わせてごはんを作り、テレビを見ながらダラダラ過ごす。天気がよければ散歩をして、気の向くままバイクやバスに乗って、知らない場所でお茶やビールを飲んでみたりする。
その範囲が特別広いわけでもないし、そこに出会いがあるわけでもない。東京で過ごしていた〝特筆すべきことのない休日〟がずっと続いているのに近い感覚がある。

本年度から登校が始まった息子に「学校でどんなことした?」と訊くと、決まって「んー、わかんない!」と言われるけど。その気持ちも、それをつい尋ねてしまう気持ちも、とても良くわかるようになった。きっと彼の学校生活も、わたしが過ごす時間と同じように、ほとんどが名もなきことなのだ。
そしてこの確認作業は「今日も幸せだね」と、同意義なのだ。

年が明けて1月。2023年になったとき、ふと「友達を作りたいな」と思って、友人に勧めてもらったアプリを始めてみた。
それは生活の範疇では出会うことのない友人を作りたい人たちが集うアプリで、わたしはベトナム語を勉強していることをプロフィールに添えて登録した。
昨日はそこで知り合ったドイツ人の旅行者とお茶をしてきた。彼は日本が大好きで、日本語を勉強している。
二人でお茶をしながら、拙い英語で日本語を教える。
アニメが好きな彼と、ドラゴンボールの話で盛り上がった。テーブルに運ばれてきたピーナッツを、二人でニヤニヤしながら「センズ!」と言い合って、ゲラゲラ笑いながら互いにポリポリ食べる。彼は帽子を取って自分のスキンヘッドを撫でながら「フリーザ!」とニコニコ言う。
楽しかった〜!と言い合いながら、別れ際はハグの代わりになぜかフュージョンのポーズを街中でしてバイバイをした。今頃彼はラオスのジャングルに居る。

昨夜は眠る間際、そのことを夫に話した。「あ〜、今日楽しかったなあ。」そう言うと「よかったね〜」と、夫も嬉しそうに返事をしてくれる。
「明日でここに暮らして3年だね。この3年、結局わたしはなんにもしてないや〜」そんなことをポロリと呟くと、夫は「いや、そんなことないよ。変わったよ。」と、はっきりと言った。
「英語しか話せない環境で誰かとお茶をするなんて、3年前には想像もしなかったでしょ?あと、自分の機嫌の取り方が格段に上手くなったし、ベトナム語だってゆっくりだけど着実に理解できるようになってる。うまく言えないけど、確かに変わっていってるよ。」
そう言われると、確かにそうだなと思う。

名もなきことが重なっていって、少しずつわたしを変えていく。
先日、フィルムを現像に出したもののピンとくる写真が何もなくて、わたしの感受性は失われていっているのかもしれない…と、嘆いたりしていた。
でもそれは違う。失われているのではなくて、変容している最中なのだ。これから一体、どんな形に、どんな人に、どんな魂になっていくんだろう。これを確かめていくためにも、とにかく写真を残したい。
記録は、自分を確かめる術だ。

「3年をかけて、もう一度繋ぎ直してきたような気がしています。」
夢で言っていたこの言葉を確かめるべく、この3年の記録たちを丁寧に見返そう。
今まででは見つけられなかった何かが、いまなら見つかりそうな気がしている。