像を結ぶ。

  • 2020.09.24

自宅マンションが電気工事のため停電している。
息子が帰ってくるまでの時間、どう過ごそうかな。そう思いながら行き先も決めずに停電の開始と共に自宅で出た。
とりあえずバスに乗ろう。そう思ってバス停へ向かう。
バスに乗ってみたけど、行き先のあてもないので知らないバス停で降りてみた。
知らない街を歩く。ちょうどお昼時で、路上には小さいプラスチックの椅子が沢山並び、お財布を片手に今日のお昼を物色しているオフィスワーカーが溢れている。
「こういうところでフラリと食事するのは今日じゃないな〜」
なんとなく、言い訳みたいに呟いてフラフラと狭い路地へ入っていく。
カバンにはベトナム語の教科書を入れてきた。宿題と復習がゆっくりできる場所がいい。そう思って街を歩くけど、それも何かの言い訳のように思えてきて自分のことをダサいなぁと思う。

SNSで知人の活躍や活動を目にしては眩しく感じる。
活躍を嬉しく思う反面、自分の何者でもなさが際立ってしまい勝手に落ち込んでしまう。
わたしは一体どうなりたいのだろうか。
ハノイで暮らし始めた頃、慣れない暮らしながらもだからこそシンプルな日々が幸せで驚いてしまった。
わたしは働くのが好きだと思っていたけど、どうやら働くことはあまり好きではなかったようだ。
日本ではお金の心配ばかりしていて、家計簿をつけながら毎日見えない不安に追いかけられていた。
好きで撮っているはずの写真も、SNSに溢れる上手な写真たちを眺めては「わたしの写真はつまらないのかもなぁ」と、気に病んでいた。
SNSを眺めては誰かや何かと自分を比較して落ち込んでいたけれど。ここに暮らしていると物理的距離があるせいか、遠い世界のことのように思える。

寂しい気持ちもあるけど、人と会うことも元来割と苦手だったんだなと気がついた。
とはいえ、自分が日本に居た時から一歩も進めてないような感覚に時折襲われたりもする。
日本へ帰ったらどうなってしまうのか途端に不安になったりもするけれど、わたしはいまここで頑張るつもりはない。
わたしの心に搭載されているレンズは標準レンズで、望遠レンズではないのだ。
今まで、焦点の合うことのない景色にピントを合わすことに必死になっていたような気がする。
ここでの暮らしは、わたしというレンズの焦点距離を教えてくれた。
〝自分〟という焦点距離を知ることで、飛び込んでくる景色というか〝やってくる景色〟があることを知った。
飛び込んできた景色は、わたしというレンズを通してどのタイミングでどんな場面で像を結ぶのだろう。
自分という存在がレンズになって、暮らしというフィルムに投影されていく景色はどんな構図でどんな瞬間なんだろう。
いまの感覚は、いままで感じたことのないものだ。そして、これはまだ掴めそうで掴めないものでもある。
新しい言語を習得するように、わたしは新しい感覚を習得する最中なのだと痛感する。

ベトナム語の教科書をトートバックの中で揺らしながら、わたしは飛び込んでくる景色に目を凝らす。
五感を使って体感する。忘れてしまうかもしれないけど、いま感じている感性が日常の当たり前になりますようにと、シャッターを切るようにまばたきをして。その度に小さな祈りを捧げた。